東ベルリン、20年前の記憶
今日はちょっと昔話をしてみたい。
今年はベルリンの壁崩壊20周年とのことで、あちこちのマスコミで特集が組まれている。ブランデンブルグ門は昔のままだが、その周囲は近代的なビルが林立し劇的に様子が変わった。
ドイツ統一はその一年後の1990年10月1日だっが、当時私は仕事でオランダにいて、仲間と共に統一に湧くベルリンを見に行く幸運に恵まれた。夜8時頃、ブランデンブルグ門の前には数万人の観衆が集まり、空には花火が打ち上げられてお祭り騒ぎだ。
人々の目的はただ一つ、ブランデンブルグ門をくぐって東ベルリンの町になだれ込むこと。私たちもその流れに身を任せ、門に向かっていった。
当時のTV中継を覚えている方もいるかも知れないが、実はあの群衆の足元はワインの瓶やらガラスの破片で埋め尽くされており、転べば即大けがをするのではないかと思うほど危険だった。興奮したドイツ人達に押し倒されないかとヒヤヒヤしながら進んだ。
国旗を振る者、国家を歌う者、抱き合う男女、とにかく歓喜に包まれてブランデンブルグ門をくぐった。それまで東側の町など見たことがなかったので、半ばワクワクしながら進んでいったのだ。
ところがー大騒ぎをしながら進んできた群衆の前に拡がっていたのは、それまでの西ベルリンの興奮と熱気、光に溢れた街並みとは全く正反対の、闇と静寂に包まれた街並みだった。
街並みは大戦前の古いベルリンの建物がそのまま並んでいる様な感じで、近代的なビルは一つもない。殆どの家の窓には明かりがついていない。そして街灯もほとんどない。
社会主義国だからそもそも店のネオンというものが存在しないので、夜は町中でも非常に暗くなるのだということを初めて現実に体験した。ようするに、町中に人が住んでいる気配がまるでなく、人々は皆、息を潜めて家の中に隠れているという印象だったのだ。
更に、政権末期の予算不足からか、道路のアスファルトは所々剥がれたまま。歩きにくくて仕方ない。電話ボックスはあるが中には電話はない。酔っぱらって陽気にはしゃいでいた群衆は勢いを削がれ、次第に人数が減っていった。あまりにも東側が暗く、どこまで行っても店の明かり一つないので、皆西側に引き返していったのだ。
今思えば不思議なのだが、もはや統一は達成され、当然チェックポイント・チャーリーも廃止されていたのに、なぜ東ベルリン側はあんなに暗く静かだったのだろう。ブランデンブルク門の前には旧東側の人々も集まっていたはずだし、既にシュタージも活動停止していたのだから、本来ならば東側でこそ、歓喜に包まれた人々がはしゃいでいてもおかしくないはずなのに、人っ子一人町を歩く姿を見かけなかった。それがあの夜の不気味さを一層際立たせているのだ。
ヨーロッパで色々な町を歩いたが、あの薄気味の悪い暗さ、重苦しさは今思いだしても身震いがするほどだ。書物を通して知っていたつもりだったが、実際に体験してみてあれほど驚いたことはかつてなかった。社会主義の冷たさをほんの一瞬垣間見ただけ(体験したのではない)なのに、首を絞められるような息苦しさを感じたのだ。
その統一から20年近く経ったが、世界不況のあおりを受けてドイツも失業率が高止まりしており、中でも旧東ドイツ国民の失業率は西側の倍以上あるといわれ、その格差が深刻な問題になっているという。
TVで旧東ドイツの失業者が「私は失業して既に9年にもなるが、こんな事なら東ドイツ時代の方が遙かにマシだった」と話していた。そのように考えている人々は相当数にのぼると言われている。
しかし、体制批判を口にした者がある夜いきなり姿を消し、二度と戻ってこないような社会がいいはずがない。それでも経済的貧困がそのような幻想を抱かせるとしたら、それはかつての悪夢の再来を招きかねないのだから、ドイツ、ひいてはユーロ全体でなんとかすべき問題だと改めて感じた。
それにしても、あの暗闇の重苦しさと怖さは、ム所や警察の拘留中ですら一度も感じたことがない種類のものだった。あの光景を思い出す度、あのような得体の知れない恐怖を感じるような社会になることだけは、絶対に阻止しなければならないと思うのだ。
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