本間 龍のブログ

原発プロパガンダとメディアコントロールを中心に、マスメディアの様々な問題を明らかにします。

「塀の中のジュリアス・シーザー」を見て

もう公開も終わりに近いので、今日はイタリア映画「塀の中のジュリアス・シーザー(2012年ベルリン国際映画祭グランプリ作品)を観てきた。

<配給元解説文>
イタリアの巨匠パオロ、ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟が監督を務めた、実在のレビッ­ビア刑務所を舞台にストーリーが展開する意欲作。服役中の囚人たちが、シェイクスピア­の「ジュリアス・シーザー」を刑務所内で見事に熱演する過程をカメラが追い掛ける。演­技に没頭する個性あふれるメンバーたちを演じるのは、終身刑や長期の刑を言い渡された­本物の受刑者たち。そこが塀の中だということを忘れてしまうほどダイナミックで感動的­な芝居に熱狂する。


 ローマ近郊にあるレビッビア刑務所は、重犯罪者用の拘禁施設。累犯の中でも殺人や終身刑(イタリアには死刑がない)などの相当重い刑の受刑者が集められているから、日本で言えばさしずめLB級(累犯で刑期10年以上の受刑者がいる刑務所)刑務所と言うことになるだろうか。

 そこでは、受刑者たちの精神教育の一環として以前から演劇を取り入れていた。それは半年間もの練習期間を与え、プロの演出家の指導を受け、最終的に一般客の前できちんと成果を発表するという非常に本格的なもので、イタリアをはじめ世界各地の刑務所で結構行われているという。

 作品そのものを語る前に、受刑者に演劇を学ばせるというシステムは実に素晴らしいと思った。多くの国々には日本のような「懲役労働」がないから、受刑者たちはひたすら監獄の中で、ベッドの上の天井を見つめながら暮らすしかない。
そんな彼らに生きる目的を与え、演劇の題目によっては、彼ら自身の過去や人生を振り返らせ、反省させる。集団によって何かを成す大切さと、観客に拍手されることによって自らが評価される喜びを知る・・いくつもの効果があるのだ。

 しかし、こうしたシステムは現状の日本の刑務所では全く不可能だ。日本の場合、受刑者は毎日「懲役労働」に就かなければならず、集団になると悪事を働くことを警戒するため、演劇など長時間の集団行動を徹底的に排除する傾向にあるからだ。しかし、特にLB級刑務所などでは、受刑者たちの自主的な行動力の醸成や内的自己反省の機会設定など、日本でも十分教育的効果が見込まれる手法ではないかと感じた。

 タヴィアーニ兄弟は偶然友人からこの「ム所の演劇」の話を聞き、早速レビッビア刑務所に出かけてみると、その時はなんとダンテ「神曲が演じられていた。その様子に感動し、すぐに兄弟は刑務所所長に「ジュリアス・シーザー」を題目に映画を撮りたい、と提案し快諾を得たのだった。だから、刑務所の受刑者が一般客の前で演劇を披露するというのはタヴィアーニ兄弟のアイデアではなく、それ自体はかなり以前から行われていたことだったのだ。

 観る前からある程度想像は出来たが、(もちろんカメラワークの妙もあるものの)確かにこの素人集団の演技が凄まじい迫力だ。それもそのはず、主役キャストの刑期が凄い。
ちょっと紹介すると、

・シーザー   麻薬売買で刑期17年
・ブルータス  組織犯罪で刑期14年
・キャシアス  累犯及び殺人罪終身刑
・ルシアス   反マフィア法により終身刑
・アントニー  累犯により刑期26年
・ディシアス  麻薬売買により刑期15年

 
 という感じで、いずれ劣らぬ重量級?の面々。だからその人相から漂う迫力というか、威圧感は半端ではない。映画では全編の三分の二が刑務所内の様々な場所で行われる練習風景なのだが、本番が近づくにつれて、次第に役に没頭し熱気を帯びる役者(受刑者)達の顔が、陰影の深いモノクロ映像で捉えられる。もちろんこれは演出の狙いで、受刑者たちが役にはまって狂気を帯びてくる様が痛いほど伝わってくるのだ。

 シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は友情と裏切り、生と死、権力と服従など、いくつものテーマを内包する重層的な悲劇だ。つまりこの刑務所にいる受刑者たちの破滅的人生と見事に重なる。ある者はマフィア組織で人を殺し、裏切られた。ある者は友の命を奪った。そしてある者は、権力欲に取り憑かれ、幾人もの罪なき人々を傷つけた。まさしく「ジュリアス・シーザー」に書かれた権力闘争、忠誠と裏切りを体現している人々が、この悲劇を演じるのだ。

 だから受刑者達はこの「ジュリアス・シーザー」の一つ一つの重いセリフに、自らの破綻した人生を重ねて絶叫する。それは既に演技であって演技ではなく、映画の観客はそれを知る故に一層画面に引き込まれるから、クライマックスのブルータスの死までその緊張感は持続する。

 終演後、観客は総立ちになって役者達を讃える。そして彼らも満面の笑顔で、観客に応える。しかし映画はそれ以上、その成功を称賛しない。演劇がいくら素晴らしくても役者達は重大な犯罪を犯した受刑者であり、演劇が終わればまた刑を償う日常に戻るからだ。

 映画は、終演後すでに興奮が冷めた受刑者たちがそれぞれの部屋に戻る瞬間をも映す。ついさっきまでの高揚感は嘘のように消え失せ、彼らは退屈な日常に戻るのだ。そしてそれはこの先、一生続くのかもしれない。このあたりの無常観は、あの冷たい独房で暮らした人間にしか分らないものだろう。

 最後に、キャシアスを演じた男(殺人で終身刑)が呟く。
「芸術を知ったときから、この監房は牢獄になった」
彼は自由の身であった頃は芸術を知らず、自由を失ってはじめて、この監獄で芸術の尊さに目覚めた。しかし今、どんなに渇望してもそれには手が届かない。。。ずっしりと重い結末だった。

 最後に一言。
この映画のイタリア語の原題「CESARE deve morire」は英語で言えば「CESARE must die」、つまり「シーザー死すべし」で、日本語題と少々異なっている。野望と権力欲に取り憑かれ、かつての友人達の忠告を無視したシーザーは、ブルータスをはじめとする友人達に刺されて死ぬ。そしてシーザーを裏切った彼らも、全てはローマのためだったのだ、と虚しく主張しながら死んでいく。野望も裏切りも、辿り着くところは「死」なのだ。

 これは上記でも書いたとおり、この悲劇を演じる受刑者たちが辿ってきた人生そのものだ。だとすると、原題は彼らに「最後は死をもってその罪を贖え」と言っているのではないか・・・などとは、いくらなんでも少々穿ちすぎだよなぁ。

ジュリアス・シーザー (新潮文庫)

ジュリアス・シーザー (新潮文庫)

高校生の頃に読んで以来、久々に福田恆存先生の訳で
読んでみたくなりました。